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はじめに 

-伊豆大島富士見観音とは-

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東京から120キロの太平洋上にある火山島「伊豆大島」。ここには日本から海外に移民した先亡者の方々の慰霊施設「伊豆大島富士見観音堂」があります。とりわけ「志」半ばにして亡くなった無縁仏を供養するために建立された五輪塔、そして「富士見観音」と呼ばれる観音様があるのを、みなさまはご存知でしょうか?

 

この「伊豆大島富士見観音堂」は、日本人移民正史に記録されることもなく、多くの日本人海外移民の歴史に係る心ある方々によって支えられてきた日本で唯一の施設であります。

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​HISTORY

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​ドキュメンタリー
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記録映像作家 岡村淳
​1958.11.7生
東京都目黒区出身。
早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒業。
考古学・民俗学・人類学などから、現代日本文化に潜む縄文文化の痕跡を研究。
同年、日本映像記録センター(映像記録)入社。
牛山純一代表プロデュ―サーにテレビ・ドキュメンタリーの作法を叩き込まれる。
処女作はシンガポールにロケした
「すばらしい世界旅行」
『ナメクジの空中サーカス 廃屋に潜む大群』
(1983年)。
以後、「すばらしい世界旅行」「知られざる世界」(いずれも日本テレビで放送)の番組ディレクターを担当し、ブラジルを始めとする中南米を主に取材。
岡村さんは藤川氏とは実際に会ってはいないものの、同氏が最期に残したメモを頼りに約10年間に及ぶ取材活動で2004年に『アマゾンの読経』を完成。そのメモには「われを知り、心ある人には、日本であろうとブラジルどこであろうともこの祈りが通じ、読経が聞こえるはずである。すべてが狂った今の世に対して『アマゾンの読経』と題して、書いてくれる人があれば、必ず心を動かして目を覚ます人があるはず」と書かれていたとし、岡村さんが藤川氏の思いを引き継いだ形となった。その後、岡村さんは06年に『アマゾンの読経』の改訂版を制作し、ブラジルや日本など各地で上映会を実施してきた。

<アマゾンの読経>

伊豆大島富士見観音堂を世にしらしめたのは、自らブラジル移民となり、今も光の当たらない移民の歴史を記録し続けている岡村淳監督の5時間余のドキョメンタリー

「アマゾンの読経」でありました。

http://www.100nen.com.br/ja/okajun/000044/20041215000826.cfm

http://www.100nen.com.br/ja/okajun/000044/20160429011858.cfm

  

「伊豆大島富士見観音堂」を建立されたのは、藤川真弘(本名[俗名]藤川辰雄)さんです、藤川さんは、1962年から1978年までの16年間、日本各地から海外に移民した方々の家族、親族の方々で作られた日本海外移住家族会連合会の専務理事・事務局長をされており、海外移住者援護の仕事を長年務めていた方です。その間、中南米に渡った多くの移住者が無縁仏として、日本から遠く離れた地で亡くなられていることを知り、60歳で仏門に入られた後、1978年に海外移住者が夢にでも見たであろう母国の山、富士山の見える伊豆大島に、日本で初めての「海外開拓移住者菩提・富士見観音堂」を建立されました。しかし藤川さん自身も供養の旅の途中にブラジルのアマゾン河沿いの町パリンチンスでお亡くなりになりました。

 藤川さんの死後、藤川さんの奥さんが観音堂の管理を行っていましたが1994年に病気で亡くなられ、その後観音堂に住んで供養や手入れを行ってきたのは、アマゾン生活の経験者である。写真家佐々木美智子さんでした。しかし諸般の事情で住み込んで管理することが出来なくなっているという状況を日本ブラジル交流協会の研修生OB会「かけ橋の会」が1年に1回のペースで観音堂の屋内や庭掃除、観音磨きなど、お掃除合宿を行ってくれたのです。現在でも1年も欠かすことなくつづけられております。

佐々木美智子さんの後を2013年にはアマゾン移民の伊藤修さんが堂守を引き継ぎました。荒れ放題となっていた観音堂周囲は竹やぶに蔽われて、お堂の屋根は、雨漏り、床が向け落ちるのを何度も補修してきた多くの方々の熱意と心は「観音様に富士山を拝ませてあげたい」のが目標でした。今もなお細々とではありますが整備と補修は進められております。

サンパウロ州スザノ市にある金剛寺には、やはり藤川氏が建立したブラジル富士見観音建立されています。

<日本ブラジル交流協会で研修をなさった方の感想>

「この金剛寺の隣にある金剛寺学園に研修生を派遣していたこともあり、私たちの身近に二つの富士見観音像が存在していることになります。』

『昔この富士見観音堂を建立した時の写真を拝見しましたが、当時は多くの人々がこの観音堂を訪ねに来ていましたが、現在では知る人ぞ知る存在となっています。新しい時代に、特に日本とブラジルの交流に関わる私たちがもっと関心を持ち、こうした事実を忘れないようにしなければならないと思います。」

サンパウロ州スザノ市にある金剛寺

関連、思い出リンク:

https://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1777

https://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160902-column.html

https://ja-jp.facebook.com/brazil.kongoji/

フェイス・ブックのコミュニテー:

Fujimikannon.com | Facebook

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富士見観音堂の下部にある石碑文「富士見観音の心」
 

「わが国の海外移住は、明治元年のハワイ移民からはじまり、いまや海外日系人150万といわれ、その二世、三世は政治経済、

学術文化等あらゆる分野に大きく活躍し、日本の信用を高めており、それが日本の海外発展に重要な役割りを果たしております。
その日系人繁栄の基礎を築いた一世達の苦闘は言語に絶し、しかも日本に錦を着て帰ることが唯一の目的であったのが、一度も帰国できず、まったく報いられる事もなく海外に没した気の毒な人たちが多く、わけても無縁仏の実態には断腸の思いがいたします。
日本海外移住家族会連合会の藤川事務局長は、同連合会が昭和37年に創立されてから海外日系人援護一筋に16年の苦闘をへて、海外移住者の苦難の心を心として仏門に入りました。そして開拓者が夢にまで見て果たせなかった帰国の望みをかなえる意味において日本の象徴たる富士山の見える場所に観音堂を建立し、それら先亡者の霊を招きその菩提を祈るために余命を捧げる事を

発願いたしました。その藤川眞弘師に、日本の海外開拓移民第一号の北米ハワイ島と姉妹都市、東京都大島町の富士山の見える地を霊地と定め私財を投じて土地建物を建造すると共に日本海外移住家族会連合会の会員を中心に「富士見観音堂捧賛会」

を設立し、国の内外から多くの方々の浄財によって、この観音様を寄進したものであります。どうぞ、海外開拓移住先亡者ここに来て安らぎたまえ と祈願する私共の微喪にご協賛くださるようにお願い申し上げます。

 

昭和33年8月吉日建立
富士見観音堂奉賛会 会長 三宅正一
日本海外移住家族会連合会 会長 田中龍夫
いまもなお 鬼哭の声が耳につき我が巡礼の旅は終わらじ
昭和50年 ブラジルにて  眞弘 」

2018年

~現在~

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東京都伊豆大島にある富士見観音堂の堂守を引き継いだ伊藤修さん(65、神奈川)によると、最初に富士見観音堂を知ったのは、記録映像作家・岡村淳さんのドキュメンタリー大作『アマゾンの読経』がきっかけだという。

伊豆大島富士見観音堂の堂監(堂守)の思い。 伊藤 修真

 

日本人海外開拓移住の先亡者、とりわけ多くの無縁の御遺骨は現在も定かでなく異国の野に眠っております。そして、その子孫が母国に戻り「出稼ぎ」とよばれ、いわれの無い差別や困難の中で再び無縁の仏となる事が現行しております。

富士見観音堂を建立した開祖藤川師は、今日の南米諸国からの「出稼ぎ」は、想像もできなかったでありましょう。

伊豆大島富士見観音堂は終わる事なく続く日本人移民の歴史の桎梏からの解放を祈り続けて行かなくてはなりません。私は仏法に帰依した者でありますが、国境からも国籍からも解放された若者たちのために、これからも精進していく所存であります。

また、お堂修復のみならず、今や故郷日本で無縁の仏となる方々のため速やかに、納骨堂の建立をいたしたく祈願するものであります。

采川道昭

 

私たちは、母と父の愛によりこの世に誕生いたしました。もちろんその父も母も祖父、祖母がいなければ、存在いたしません。このように誰一人の命が欠けても私という存在は無いのです。先祖を敬う事は、自分の存在を敬うことでもあります。なぜなら、私たちも、母になり、そして父になり、未来の命を繋ぐ大切な存在だからです。

命に国境はありません。国籍もありません。その事を移民への援助から悟られ、その命に心を寄せた開祖藤川師の菩提をお祈りいたします。伊豆大島富士見観音堂が多くの人に安心と希望を与える聖地となるようお祈り申し上げます。

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前南米総監

​現在加睡斎斎主

[采川道昭老師]

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